Q-LETTER

明治時代商家の子育て

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 現在、大阪の印象を人に問えば、食い倒れ、お笑いの町であるが、つい最近までは、商人の町であった。  「商都」は大阪の代名詞であったが、その商都の実際を動かしていたのは、青雲の志を抱いて地方から出てきた人達が多かった。その人たちが成功し、財を成して2~3代も経つと”「貸家」とお家流で書く3代目”と親の財産を食いつぶす道楽息子を育ててしまうことが多かった。  それを防ぐための知恵として、第二次世界大戦前までは長男相続が法律上決まっていたにもかかわらず、息子が家を継ぐだけの資質がないと親が見極めると、息子を廃嫡にして、娘に養子を貰い、後を継がせることで店を存続させた。(実際、大阪は他府県に比べて養子縁組が多かったと、統計に表れている)   当時、大部分を占めていた中小規模の商家では、後継ぎといえども特別扱いすることなく、他の雇い人同様に働かされるのが通常であったようだ。  和菓子メーカー「新杵」の故三井満寿雄さんは(人物の1端は20世紀日本人の記憶 にある)勉強がしたかったけれど、「まんじゅうやの息子に学問はいりまへん」と親に許して貰えなかった。  それでも学びたい心をおさえかねてYMCAの夜間英語学校に得意先への配達を終えてから毎日走って通ったとお聞きした事がある。  そのときに受けた教育、交友は素晴らしいもので、同級生の中に、大学教授になった方や、大阪の有名店の社長等がおられ、仕事のみならず、YMCA活動をも共に続けられた。  三井さんのそれらの友人達も、また、働きながらの通学だった。学びたいという熱望が全ての事を突き動かして、学問する楽しさ、家業を存続させる事がその家にとって大切な事等、計り知れない多くの事を体得された。 日本全体が貧しかったから出来たのではなく、しっかりとした信念が人々の中に生きていた時代に教育をうけた三井さんのお話に、人を育てるという事の意義と意味を考えさせられる。 近江商人の家訓に「人富めば即ち奢る(おごる)」と言う今の時代を突いている言葉がある。
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